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「うちは兄弟仲がいいので、相続でもめることはないと思います」。相続の相談窓口で、いちばんよく聞かれる言葉です。実際、そう話すご家族の多くは本当に仲がいい。盆と正月には集まり、親の入院時にも交代で顔を出しています。
もめない家庭ももちろんあります。ただ、家庭裁判所に持ち込まれる遺産分割の事件を見ると、財産が多い家に偏っているわけではないことがわかります。
令和6年の司法統計年報(家事編)によると、家庭裁判所で調停が成立した、あるいは審判で認容された遺産分割事件のうち、遺産の価額が5,000万円以下だったものが全体の約8割を占めています。1,000万円以下という区分だけでも3分の1を超えます。
ここで注意していただきたいのは、この数字が「もめる確率」を示すものではないという点です。あくまで裁判所まで持ち込まれた事件の内訳であり、財産の多い家庭は生前に対策を済ませていて裁判に至らない、という偏りも当然あります。
それでも言えるのは、相続税がかからない規模の家庭でも争いは起きているということです。相続税には基礎控除があり、3,000万円に、法定相続人1人あたり600万円を足した金額までは課税されません。相続人が3人なら4,800万円。この金額に届かない家庭でも、裁判所には来ているわけです。
むしろ、財産が少ないほうが分けにくいという事情があります。自宅が財産の大半を占めていて、分けられる現金が少ない。この構図になると、一軒の家をどう扱うかで行き詰まります。
一緒に育ったきょうだいでも、大人になれば置かれた状況は変わります。子どもの学費がかかっている人もいれば、すでに定年を迎えて年金で暮らしている人もいる。持ち家がある人とない人、独身の人と家族を養っている人。
そこに、それぞれの配偶者の考えが入ります。「あなたはもっともらっていいはずだ」と外から言われれば、本人にその気がなくても引けなくなります。
さらに難しいのが、金額を愛情の大きさとして受け取りやすいことです。親が生前に何も説明しないまま、死後に開いた遺言書で分け方を初めて知ると、「多くもらったきょうだいのほうが親に愛されていたのだ」と読まれてしまう。実際には、学費の負担や介護の分担を踏まえた結果かもしれないのに、その理由が伝わっていないためです。
「私だけ学費を出してもらっていないのだから、その分は多くもらうべきだ」「親の介護をいちばん引き受けたのは自分だ」。どちらの言い分にも理があり、だからこそ決着がつきません。こうした受け取り方は特殊なものではなく、誰にでも起こりうる自然な反応です。
相続の準備というと遺言書から考えがちですが、何がどれだけあるかを把握しないまま分け方だけ決めても、抜けが出ます。
書き出す対象は、大きく5つに分かれます。
金融資産は預貯金、株式、投資信託、国債や社債、貸付金など。近年はネット銀行やネット証券、暗号資産といったデジタル資産が見落とされがちです。通帳も郵便物も届かないため、家族が存在に気づけません。
不動産は土地と建物のほか、借地権や借家権、私道の共有持分も含みます。
その他の財産として、貴金属、骨董品、絵画、ゴルフやリゾートの会員権、自動車。債務として借入金や保証金。そしてみなし相続財産として死亡保険金、死亡退職金、個人年金の受給権。
債務については、ひとつ補足があります。借入金は相続財産から差し引けますが、連帯保証債務は原則として差し引けません。保証人の立場そのものは相続されるにもかかわらず、確実な債務とは扱われないためです。一覧に書き出す意味はありますが、税金の計算では別扱いになると考えてください。
最初から完璧を目指す必要はありません。ざっとしたメモで十分です。目的は正確な財産目録を作ることではなく、家族で話す土台をつくることにあります。
財産の全体像がつかめたら、次が遺言書です。個人が使うものは実質的に2種類あります。
自筆証書遺言は、全文と日付と氏名を自分で書いて押印するもの。思い立った日に作れて、費用もかからず、内容を誰にも知られずに済みます。ただし財産目録を除いて手書きが必要で、書式に不備があると無効になります。保管を自分でする場合、偽造や隠匿、そもそも発見されないという問題も残ります。
公正証書遺言は、内容を公証人に伝えて作成してもらうもの。署名以外を手書きする必要がなく、書式の不備で無効になるリスクが低く、原本が公証役場に保管されるため偽造や紛失の心配がありません。作成には証人が2人必要で、費用もかかります。
この証人について、よくある誤解があります。「親族はなれない」と説明されることがありますが、正確には、相続人になる予定の人と、遺言で財産を受け取る人、その配偶者や子が証人になれません。未成年者も対象外です。したがって、相続人にあたらない甥や姪であれば証人になれる場合があります。
もうひとつ、公正証書遺言は公証役場へ出向いて作るのが基本ですが、2025年10月から公証手続のデジタル化が進み、要件を満たせばウェブ会議による作成もできるようになりました。ただし公証人が相当と認めた場合に限られ、対応している役場も限定されます。体調や距離の問題で足を運びにくい方は、事前に確認してみてください。
どちらを選ぶかは、財産の複雑さと相続人の関係で決まります。財産が預貯金中心で相続人も少なく、争いの芽が見当たらないなら自筆でも回ります。不動産が絡む、相続人の間にすでに温度差がある、事業を承継させたい、といった事情があるなら公正証書のほうが安全です。
自筆証書遺言の弱点を補う仕組みとして、2020年7月から法務局での保管制度が始まっています。
預けると、原本と画像データを法務局が保管するため、紛失や盗難、改ざんの恐れがなくなります。民法の定める形式に合っているかを職員が外形的に確認してくれるので、明らかな書式不備で無効になる事態も避けられます。ただし、これは形式のチェックであって、内容が有効であることまで保証するものではありません。
通知の仕組みは2つあります。ひとつは、本人が希望していれば、死亡が確認された時点であらかじめ指定した人(最大3名)へ通知が届くもの。もうひとつが、相続人の誰かが遺言書を閲覧したり証明書の交付を受けたりすると、他の相続人全員に自動で通知が届くというものです。後者は本人の希望とは関係なく行われます。遺言書の存在が一部の相続人だけに知られたまま進む、という事態を防ぐ仕組みです。
そして実務上いちばん大きいのが、家庭裁判所の検認が不要になる点です。通常、自筆の遺言書は開封前に検認を受けなければならず、これを経ないと手続きを進められません。保管制度を使えばこの一段が省けます。
利用するには条件もあります。用紙のサイズや余白、ページ番号の付け方といった様式の要件を満たす必要があり、保管の申請には1件3,900円の手数料がかかります。自筆証書遺言の長所である「費用がかからない」という点は、この制度を使う場合には当てはまりません。保管期間は、原本が死亡の日から50年、画像データが150年です。
ここまで書いておいて水を差すようですが、遺言書はもめごとを完全には防ぎません。
理由のひとつが遺留分です。配偶者と子、そして直系尊属である親には、法律上最低限受け取れる取り分が保証されています。一方で、兄弟姉妹に遺留分はありません。子のいない夫婦が「すべて配偶者に」という遺言書を書く動機は、まさにここにあります。
特定の一人に偏らせる内容の遺言は、この遺留分を侵害し、請求のきっかけを作ります。しかも2019年7月以降に開始した相続では、遺留分の請求は金銭で支払うものとされました。不動産そのものを分け合うのではなく、現金を用意して払うことになります。自宅しかない家庭では、これが直接的な資金の問題になります。
もうひとつが時間の経過です。遺言書を書いた時点と、実際に相続が起きる時点とでは、家族の状況が変わっています。書いた当時は現役で働いていた子が、相続の頃にはリタイアしているかもしれない。当時は遺産を当てにしていなかった人が、事情が変われば気持ちを変えることもあります。
それでも遺言書を書く意味は残ります。分け方そのものより、なぜそう分けたのかを伝えられるからです。多く渡す相手がいるなら、その理由を本人の言葉で残しておく。付言事項として書き添えることができます。
財産の大半が自宅というご家庭のために、いくつか制度が用意されています。
ひとつが配偶者居住権です。2020年4月から始まった仕組みで、自宅の権利を「住む権利」と「所有する権利」に分け、配偶者には住む権利を、子には所有する権利を渡すことができます。配偶者は住み慣れた家に住み続けられ、そのぶん預貯金を多く受け取れる。所有権をまるごと配偶者が相続すると、それだけで取り分を使い切ってしまい、生活費が残らないという事態を避けられます。
もうひとつが配偶者の税額軽減です。配偶者には、1億6,000万円までなら相続税がかからないという枠が用意されています。法定相続分がそれを上回る場合は、法定相続分まで非課税です。ただしこの軽減を受けるには相続税の申告が必要で、誰が何を相続するかが決まっていることも前提になります。
財産の一覧を作り、誰に何を渡したいかを考え、必要なら遺言書にする。この順番で進めるとして、どこから手をつけるべきかはご家庭の事情で変わります。持っている財産の種類、相続人の人数と関係、自宅が財産に占める割合。この3つが違えば、優先すべきことも変わります。
そのうえで、準備の効き目を左右するのは、家族と顔を合わせる回数かもしれません。相手の暮らし向きがわかっていれば、互いの事情が見えてきます。見えていれば必ず譲れるというものではありませんが、少なくとも、知らないまま結果だけを突きつけられるよりは話し合いになります。
なお、この記事は制度の概要をまとめたものです。相続税の具体的な計算や、ご自身のケースで特例が使えるかどうかの判断は、税理士など有資格者にご確認ください。
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