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物価高が続くなかで「賃金を上げるべきだ」という方向性そのものに異論を挟む人は少ないでしょう。食品や光熱費、家賃など生活の基本コストが軒並み上昇する今、特に最低賃金に近い水準で働く人にとって、時給の引き上げは切実な生活防衛そのものだからです。
一方で、政府が掲げる最低賃金「全国平均1,500円」という目標については、足元で実現時期を巡る議論がにわかに緊迫しています。これまでのような大幅な引き上げを本当に続けられるのか、企業側の支払い能力はもつのか。ここにきて、数字としての目標と、地方や中小零細企業が直面する現場のリアルとの距離が改めて問われています。
もちろん、低賃金に依存した経営をいつまでも続けることはできませんし、人手不足の時代に一定の賃金を払えない企業が淘汰されるのは市場の自然な流れです。
しかし、最低賃金は努力目標ではなく「法的に強制される下限」です。いくら立派な数字を掲げても、その原資をどこから生み出すのかという現実論を避けることはできません。
本稿では、1,500円目標に黄色信号がともる背景を、現行水準、企業の支払い能力、そして価格転嫁の限界という3つの観点から整理します。
まず確認しておきたいのは、現在の最低賃金が置かれている立ち位置です。
2025年度の地域別最低賃金は、全国加重平均で時給1,121円(前年度比66円増)となり、目安制度の開始以降で最大級の上げ幅を記録しました。すべての都道府県で1,000円の大台を超えたことも記憶に新しいでしょう。
もっとも、目標である「1,500円」から見れば、依然として相当な距離があります。
現在、最高額の東京都でも1,226円であり、1,500円まではさらに274円の上積みが必要です。最低水準である高知県、宮崎県、沖縄県の3県(1,023円)にいたっては、477円もの引き上げを迫られます。
仮に毎年50円という異例のペースで引き上げ続けたとしても、達成には5年から10年近くかかる計算になり、1,500円という数字が決して容易なハードルではないことが分かります。
そして今、現場で深刻な問題となっているのが、最低賃金の引き上げに伴う「賃金体系全体の歪み」です。
最低賃金が急ピッチで上がるにつれ、その少し上の賃金帯、たとえば時給1,200円や1,300円で働いていた経験者やベテランとの差が急速に縮まっています。最低賃金に近い層の賃金だけが急速に上がれば、これまで経験や責任に応じて少し高い時給で働いていた人との賃金差が縮まり、職場内の納得感が崩れやすくなります。
職責やモチベーションに応じたバランスを維持しようとすれば、結果として企業は最低賃金層だけでなく、全社的な賃金体系そのものを底上げせざるを得なくなります。
つまり、最低賃金の引き上げは、最低賃金近辺で働く人だけではなく、企業全体の人件費を押し上げる要因になるのです。
議論を整理する上で誤解してはいけないのは、「賃上げが必要かどうか」と「それを企業が支えられるか」はまったく別の問題だということです。
労働者の生活を守る必要性は十分に分かります。
しかし、その原資を企業が用意できなければ、持続可能な賃上げにはなりません。潤沢な内部留保や価格決定力を持つ大企業なら対応できても、地域の飲食店、小売店、介護、物流などを支える労働集約型の中小零細企業はまるで事情が異なります。原材料費やエネルギー価格、さらには借入金利まで上がるなかで、固定費としての人件費だけがさらに重くなれば、経営の余力は急速に失われかねません。
最低賃金は法律ですから、「払えないから据え置く」という選択肢はありません。原資が足りなければ、企業は別の形で調整せざるを得なくなります。
具体的には、営業時間の短縮やシフトの削減、採用抑制、人員削減、省人化投資、あるいは事業そのものの廃業です。
これらは労働者にとっても消費者にとっても望ましい結果とは言えません。時給が上がってもシフトを減らされて月収が落ちたり、地域の生活インフラである店舗やサービスが消滅したりすれば、雇用や地域経済に別の深刻な負担として跳ね返ってくることになります。
「人件費が上がったのなら、その分を値上げして価格に転嫁すればいい」という意見もあります。理屈としてはその通りですが、現場はそれほど単純ではありません。
たしかに街を見渡せばあらゆるモノやサービスが値上げされており、消費者から見れば企業はすでに十分価格転嫁をしているように映るかもしれません。
しかし実態は、度重なる原材料費や物流費、電気代の上昇分すら全額を転嫁できず、利益を削って耐えている中小企業が少なくありません。価格を上げているからといって、コスト増をすべて吸収できているとは限らないのです。
一部の大手企業やブランド力のある業界であれば、コスト増以上の値上げをスムーズに行うことも可能でしょう。
しかし、地域の小さな下請け企業や生活関連サービスが同じように値上げをすれば、客離れが起きるか、取引先から契約を切られるリスクと隣り合わせになります。
つまり、世間で見かける値上げのニュースは、決して「賃上げの原資が十分に確保できている」という意味ではないのです。特に人の手を減らすことが難しい介護や保育、飲食などの業種では、急激な人件費上昇を吸収する余地はほとんど残されていません。
最低賃金を大きく引き上げるのであれば、価格転嫁、取引適正化、生産性向上、中小企業支援をセットで進めなければ、現場の負担だけが先に膨らむことになります。
いかがでしょうか。
最低賃金1,500円という目標は、働く人の生活防衛という観点から見れば分かりやすく、方向性としても理解できるものです。
しかし、それを支えるための「価格転嫁の環境づくり」や「中小企業の生産性向上支援」が追いつかないまま、法律という強制力で数字だけを先行させれば、現場の負担だけが膨れ上がり、結果として雇用や地域サービスの縮小という形でしわ寄せが回ってきます。
最低賃金の引き上げに黄色信号がともり始めているのは、賃上げの大義名分が失われたからではありません。現場の「支払い能力」という現実の壁を、これ以上無視できなくなってきたからではないでしょうか。
数字としての1,500円だけを追いかける政治のパフォーマンスではなく、そのコストを社会全体でどう分担し、どう支えるのか。
最低賃金を巡る議論は、いよいよその実務的な本質に向き合う段階に入っているといえるでしょう。
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